『人生何が幸いするかわからないと思う』「塞翁が馬」の習慣を身につけよう! プラス思考の習慣で道は開けるより
プラス思考の習慣で道は開ける
今日はプラス思考を習慣し成功と幸福を手に入れようという話です。
最近「精神神経免疫学」という医学が進んでいます。
病気に対する抵抗力、つまり、免疫力というのは脳の働きと大いに関係しているという医学です。
免疫力は脳の中心にある「間脳」がコントロールしているということが現代医学ではっきりしました。
「暗く思いつめる」とかのマイナス感情を持っていると間脳にマイナスのパルス・刺激が伝わります。
そうすると自律神経がアンバランスになり免疫力が低下し、病気になりやすくなる。
ですからいつもプラスの感情を持つ、つまりプラス思考をして間脳の動きを活性化しておくと病気になりにくいというわけです。
マイナスの感情とは、次のようなことです。
①心配し続けること。
➁不安な気持ちを持ち続けること。
➂暗く思い詰めること。
➃「病気が治らない」、「だめだ」「無理だ」等と希望を捨ててしまうこと。
➄しょっちゅう怒っていること。
等です。
このようなマイナスの感情を持ち続けていると免疫力が低下し、身体と心を病みます。
プラス思考をつづけていると間脳が刺激され、免疫力が高まり、気力も充実し、仕事にも気が入ります。
プラス思考がすべての原点なのです。
さあ即座にプラス思考の実践です。
本日は
☆彡『人生何が幸いするかわからないと思う』習慣を身につけようということです。
「人間万事塞翁が馬」という有名な諺があります。
私たちの人生上の出来事は何が幸いするかわからないものです。
一時的に悪そうに見えても、慌てることはない。その苦しみが少しばかり続いても、必ず難関は突破できる。
途中で投げ出したりしなければきっと目標は達成できるという教訓だと思います。
モチベーションの講演者としては世界一とも言われているジョセフ・マーフィの名言があります。
「災難の中には幸せの芽が潜んでいる」という言葉です。
聖書でも、同じようなことが説かれています。
「今泣くものよ、後で笑うことを得ん」
一時的な苦しみを気にしないで、「これで良くなる。もう、幸せの芽が出始めている」と確信することが大切である、と説いているわけです。
苦難を乗り越えてこそ本当の幸せの芽をつかむことができる、と言っているのです。
目標達成が近づいた時こそ最大の難儀がやってくる、とも言います。
「行き詰まりは発展の前触れ」なのでしょう。
とはいえ、やはり私たちは迷ったり、悲観したりします。これは人間である以上、避けられないことです。
所詮人間は不完全なのですから。
人間の小さな知恵で考えてどうにもならない問題が、たくさんあります。
だから後は、「人間万事塞翁が馬」の心境で天命を待つ。この達観が大事だと思います。
以上は 阿奈靖雄著 「プラス思考の習慣で道は開ける」より一部抜粋
★人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま )について
単に塞翁が馬(さいおうがうま)、ともいいます。
「人間万事塞翁が馬」とは、人生における幸不幸は予測しがたいということ。幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからないのだから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではないというたとえ。
「世の中のことはすべて何が幸いして何が禍するか分からないものだ」という意味になります。
《「塞翁が馬」の故事》
昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。
やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。
人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。
すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。
人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。
一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。
しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだという故事に基づく。
単に「塞翁が馬」ともいう。
「人間」は「じんかん」とも読む。
【出典】 『准南子』人間訓
不運なことが合った場合、
「塞翁が馬というから、気を取り直してがんばろう」
といった感じで励ましたり、
反対に、幸運なことでも
「塞翁が馬の話もあるので、油断しないでおこう」
と戒めることもできます。
いろいろなことに一喜一憂や右往左往せず、どっしりとした人生を過ごすために
「塞翁が馬」を座右の銘にするのもいいですね。
類義語 禍福は糾える縄の如し/沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり
【英語】
Joy and sorrow are today and tomorrow.(今日の喜び明日は悲しみ)
A joyful evening may follow a sorrowful morning.(悲しみの朝の後には喜びの夕べが訪れる)