ハッピーライフ専科

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人間は、どこかで報われていないと生きていけない。

☆彡むくいを求める心


こまったときに思い出され

用がすめば

すぐ忘れられる

ぞうきんさん

台所のすみに小さくなり

むくいを知らず

朝も夜も喜んで仕える

ぞうきんさんになりたい  (河野 進=こうのすすむ)

 

本当にこんな生き方ができたら、どんなにいいかと思いながら、そうなれない自分と一緒に暮らしている。
「むくいを知らない」どころか、自分の存在、手柄を知らせよう、知らせようとしている自分。

「まあ、キレイなお花」と修道院の誰かが言えば、「私が頂いた花なの」と、言わなくてもいいことを言っている。

なぜ黙って相づちが打てないのか。

こんな私が"ぞうきん"になりきれる日は遠い。

でも、と思う。人間はやはり、どこかで報われていないと生きていけないものだ。

 岡山にいたころ、私は毎年四月頃、街頭募金に立ったものだ。

 吹く風の冷たい年もあった。

 修道服で立っていると、お金を入れてくださる方が多いと言われて、立っていたものだった。

 教えていた学生たちに、一緒に立ってくれないかと声をかけると、たいていの人は気持ちよく応じてくれたが、中には「いやです」と断る人もいた。

 理由を尋ねると、「街頭募金に立つなんて、結局は自己満足なんでしょう」という。

 その言葉に、一瞬たじろぎながらも思った。所詮人間は神ではないのだから、100%むくいを求めない仕事など出来っこないのだ。

自己満足だけを求めて街頭に立つことは決して褒められたことではないけれども、よいことをした時、自然に満足感を覚えることは当たり前なのだ。

 それを素直に、謙虚に受け取ったらいい。詩の中の"ぞうきん"も人の役に立った時には、たぶんそれなりの満足感を味わったに違いない。

 「忘れられて喜べる教師になれ」といわれたことがある。

 昔のこと、教職をはじめとする私への恩師の言葉だった。
 
 "ぞうきん"になれということだったのだろう。

 

 今の私は優等生の"ぞうきん"になりきれず、まだ、密かな自己満足を求め、味わっている。

でも、そんな私に「それでいいんだよ、ぞうきんさんになろうという気持ちだけは忘れないでいなさい。」と、優しくいってくれる声がある。

 

その声に支えられて、毎日を歩んでいる。


一度だけの人生、でもね リセットは何度でもOK♪~ 楽しまなくっちゃ♪~

 

Good Luck!! 幸運を祈ります! おきばりやす。

 

 

以上は渡辺和子著「目に見えないけれど大切なもの」より一部抜粋&加筆

 

★河野 進(こうの すすむ、1904年 - 1990年11月2日)は、日本の詩人。通称「玉島の良寛さま」。
経歴
和歌山県生まれ。満州教育専門学校、神戸中央神学校で学ぶ。玉島教会において牧師となる。賀川豊彦より、岡山ハンセン病療養所での慰問伝道をすすめられ、50年以上たずさわる。インド救ライセンター設立の運動、またマザー・テレサに協力する「おにぎり運動」に尽力する。日本基督教団玉島教会名誉牧師、日本キリスト教救ライ教会理事、社会福祉法人恵聖会(養護施設岡山県立玉島学園、保育施設富田保育園)理事長を務めた。「聖良寛文学賞」を受賞。


◆作品 

ぞうきん

ぞうきん

 

 「ぞうきん」(2013年、幻冬舎
「河野進詩集」(1994年、櫂歌書房
「今あなたは微笑んでいますか」(1991年、聖恵授産所出版部)
「母よ、幸せにしてあげる」(1986年、聖恵授産所出版部)
「カナの婚宴の葡萄酒」(1984年、聖恵授産所出版部)
「万華鏡」(1983年、聖恵授産所出版部)
「おにぎりの詩」(1981年、柏樹社
「母の詩」(1980年、柏樹社
「雑草のような母」(1959年、大島青松園慰安会)
「十字架を建てる」(1938年、ともしび社)


★渡辺 和子のプロフィール
渡辺 和子(わたなべ かずこ、1927年2月11日 - 2016年12月30日)は、キリスト教カトリック修道女 (修道女名:シスター・セント・ジョン)。 学校法人ノートルダム清心学園理事長。北海道旭川市生まれ。
父は台湾軍司令官や陸軍教育総監を務めた渡辺錠太郎。1936年2月26日、陸軍将校の一部らが起こした軍事クーデター「2・26事件」で、父親が反乱軍の将校らに殺害される場面を9歳のときに自宅で目撃する。
「血の海の中で父は死にました。凄惨な死でございました」
渡辺さんは当時のことをエッセイ集『美しい人に』などでも書いているほか、講演などでも折に触れて当時の様子や、加害者の遺族との「和解」や「赦し」について語っていた。
 
◆略歴
1927年、北海道旭川市で出生。父親は当時、陸軍中将で旭川第7師団長だった渡辺錠太郎で、53歳の時の子であった。4人兄姉の末っ子で次女。
1936年、成蹊小学校3年生で9歳の時に二・二六事件に遭遇。父の居間で、当時大将で教育総監だった父が青年将校に襲撃され、43発の銃弾で命を落としたのを、わずか1mほどの距離から目の当たりにした。
成蹊小学校、雙葉高等女学校(現 雙葉中学校・高等学校)卒業。
1945年、18歳でキリスト教カトリック)の洗礼を受ける。1951年聖心女子大学に通いながら上智大学で文書作成のアルバイトをし、1954年上智大学大学院西洋文化研究科修士課程修了。
1956年、29歳でナミュールノートルダム修道女会に入会。
アメリカへ留学し、1962年6月にボストンカレッジ大学院で博士号(哲学)を取得したのち、同年9月にノートルダム清心女子大学教授に就任。
1963年に36歳という異例の若さで岡山県ノートルダム清心女子大学の学長に就任(1990年に退任)。長年にわたり教壇に立ち、学生の心を支え指導する。
1977年にはうつ病を患う。1984年にマザー・テレサが来日した際には通訳を務めるなど多方面で活躍。著書も多数。
1990年にはノートルダム清心女子大学の名誉学長、及びノートルダム清心学園の理事長に就任。1992年~2001年には日本カトリック学校連合会理事長に就任した。
1996年、69歳の時にカルカッタの修道会本部を訪れる。
2012年に発売した著書『置かれた場所で咲きなさい』が、200万部を超えるベストセラーとなった。
2016年12月30日、膵臓癌により死去。89歳没。
 
◆受賞
1974年 - 岡山県文化賞(学術部門)を受賞
1979年 - 山陽新聞賞(教育功労)を受賞
1979年 - 岡山県社会福祉協議会より済世賞を受賞
1986年 - ソロプチミスト日本財団より千嘉代子賞を受賞
1989年 - 三木記念賞を受賞
2015年 - 広島大学のペスタロッチ賞を受賞[8]。
2016年 - 春の叙勲で旭日中綬章を受章[9]。
◆著書
『信じる「愛」を持っていますか』PHP研究所、1981年
『心に愛がなければ』PHP研究所、1986年
『現代の忘れもの』日本看護協会出版会、1989年
『愛をこめて生きる』PHP研究所、1989年
『愛することは許されること』PHP研究所、1999年
『目に見えないけれど大切なもの』PHP研究所、2003年
『愛と励ましの言葉366日』2004年、PHP研究所
『忘れかけていた大切なこと』2005年、PHP研究所
『「ひと」として大切なこと』PHP研究所、2005年 - 2003年刊行『人間としてどう生きるか』の改題版
『愛と祈りで子どもは育つ』2006年、PHP研究所
『美しい人に』PHP研究所、2008年
『幸せのありか』PHP研究所、2009年
『置かれた場所で咲きなさい』幻冬舎、2012年
『スミレのように踏まれて香る』朝日新聞出版、2012年 - 1970年刊行『人をそだてる』(サンパウロ)の改題、加筆修正版
『面倒だから、しよう』幻冬舎、2013年
『幸せはあなたの心が決める』PHP研究所、2015年
『どんな時でも人は笑顔になれる』PHP研究所、2017年
『あなたはそのままで愛されている』PHP研究所、2018年 - 遺稿集

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